つい先日の話し。
なんだかここのとこ腸の調子がよくないなと思う日が続いていて、
手放さなければならなくなったいろいろなこと、悲しい気持ちや、自分にたいする憤りとかがおなかの中にのこった感じで、
なんだか一日のうちの何回か腸がしくしく痛い。

珍しく、ちょっとだけ、病院に行こうかなと思ったのだけれど、
結局、うん、温めようという考えに至り、休みの日や仕事の後に、最寄りでかつ最もよく行くあいあい温泉に何日か通っていた。

あれはだいぶん調子が良くなって、
一日に2〜3時間温泉にいて、
半身とか全身とかサウナとか、くりかえしくりかえし、ただ温めていただけなんだけれど、
日に日に調子がよい。
うん、やっぱり温めるのがいちばんなんかなー。
と実感していた時のこと、

寒い日で、露天の温度が低かったからか、露天風呂に人が居なくて、
わーい、らっきー♪貸し切りやーん♪と、ひとりのんびり浸かっていると、
80歳はゆうに超えたのではなかろうかと思うおばあさんが入ってきた。

腸の調子も悪く、なんだかメンタルもすこし元気がなくなっていて、ネガティブワンダーランドの住人になっていたわたしは、
生きるとは苦である。
でも生き続けなければいけないって、こういうことか…
生きるってすごいな…
みたいな、そういう思考になりがちだった。
すぐ、小説ブッダのあれこれの場面が浮かぶあたりは病気…。

だから、そのおばあさんの、
しろくなった髪や、皺のいった顔や身体をみて感動し、
おばあさん、生き続けてきたんじゃな。
日々を淡々とただ生きてきたのだ。
(や、まあ、ものすごいドラマチックで日々しあわせはっぴーだったかもしれんがね…)
もう、それだけでこころから尊敬する。
生きて歳を重ねるってそれだけでなんてすごいことだろう。
という、気持ちさえ覚えた。
温泉でおばあさんに会っただけで、
なんて大げさな…と思うが…、
本気で感動していた。

のに、
そのおばあさんが、広い露天風呂なのに、わたしを見つけて近づいてきて、
ぴったり横に座り話しかけてきた時には、ものすごい落ち着かなくなって、
申し訳ないが、今すぐ外に出たい気持ちになった。

おばあさんはそんなわたしにもちろん構わず話しかけてきて、
どっから来たのかとか、自分はどこからかとか、こないだはこんな人がいたとかあれこれ…。
常連さんなんだろう。
そして、おばあさんはこんな話しをしてくれた。

こないだここでおうたひとがいよったんやけどな、
ほの人な、病気で病院のせんせいに切らなあかんなあと言われたらしいんやけどな、
ほの人は切るんがいややったらしいてな、
ほのかわり、温泉に通うことにしたんやと、
ほんで、2ヶ月毎日ここに通うたんやって、
ほの病院の先生も気にして何回か一緒に温泉に来たっていよったわ。
ほしたらな、きれーに治ったらしいわ。
切らんでもようなったって。

なんと!お腹の調子が悪くて、でも病院にいかんと温泉に通っているわたしを肯定してくれるようなありがたいお話し。

おばあさんも、数日前に目が覚めたら目の前がぐるぐるなって、
病院にいって点滴をしてもらったらしい、ほそい皺だらけの腕の点滴の後を見せてくれた。
『ほなせいだいて温泉に通わなあかんね、はよう元気になったらええね。』

とだけいって、わたしはその場を離れた。
すごい素敵なおばあちゃんやったし、とてもいい話しを聞かせてもらえて、すごく嬉しかったし、ありがたかった。
おばあちゃんは、もっと話したそうだった。

けど、それ以上そこでおしゃべりを続けることはできなかった。
わたしには、それは居心地がわるくて、落ち着かない。
おばあちゃんが嫌なわけでも、気に障ったわけでもない、
ただ、わたしは、知らない人と話すのが得意ではないのだ。
しかも裸で温泉で。

以前のわたしは、
そんなわたしを責めていた。
あの人やあの人やあの人や、
わたし以外のほとんどの人は、
もっとおばあちゃんとたくさん話して、おばあちゃんが嬉しくなるような会話をちゃんと選べて、おばあちゃんも幸せな気持ちになるんだろうな。
みんなはやさしい。
わたしはやさしくない。
みんなはいたわりの気持ちがある。
わたしにはいたわりの気持ちがない。
って、人と比べて自分を責める。

けど、そんなこんなに飽きたので、
ある時から考え方を変えることにした。
わたしはそれが得意でない。って、
得意でないわたしをそれはそれでいいと思えるようになった。
知らない人が嫌いなわけでない。
知らない人と話すのが苦手なだけなのだ。
どうしたって落ち着かないんだもの。
それはわたしのこころの性質。
ほかのいろんなこころの癖も同じ、
周りの素敵な人のように出来ないことや、自分の苦手を責めることなく、
苦手を克服しなきゃと背負うことなく、
自分の苦手を認めていこうと思ったら、
ものすごくこころが軽くなった。

人それぞれ、
こころの性質が違う。
こころの成長度合いが違う。
今のわたしはここでよい。

そうしたら人のこともそう思えるようになった。

考えてみたら、そんなこともわからなかったわたしが、多種多様のお母さんと暮らしていたんだもの、そりゃいろいろあるわけだ。。

わたしは自由で、
ひとも自由で、
それぞれが、自由にふるまった責任をそれぞれに、受け取るのだということ。
それを認めることが、受け入れること。
全ての人を好きになることが受け入れることではないということ。
おなじように全ての人に好かれない自分も受け入れるということ。


温泉で会ったおばあちゃんが、
もう一回やさしい気持ちをくれたきがする。
もちろん、おばあちゃんはそんなことは知らんだろうが。
通りすがりの人に、通りすがりの人の何気ない言葉や仕草に、
話しはしないけど、話しかけたりもしないけど、いろいろ感動してこころを豊かにしてもらっている。
日々の中、ありとあらゆる出来事の、
本当にさりげないちいさい言葉や仕草が、わたしにとっていちばん、うれしくて優しい気持ちになることがある。
わたしというのはそういう性質。
後からしみじみ思い返すのです。

ありがたいことですなー。

そんな、静かだれけどこころの中はドラマチックな温泉療養週間。
おかげさまでお腹の具合ももうすっかりよくなりました。
2014-09-27-18-07-24