花水月*soap&candles


石けんとろうそく屋の
とるにたらない日々こと。

久しぶりに高知へ。
仕事でなんだけど。
久しぶりといっても、多分前回行ったのは3週間前くらい。

3週間ぶりの高知。
大歩危小歩危、祖谷の山越え、
山と谷は、彩りのよい紅葉で、
なんとも幸せな気持ちにさせてもらいました。

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いちねん前に今の仕事をはじめたとき、
愛媛に下道で、とことこと、山をふたつ超えました。
初めて見た桜三里の紅葉に感動したて、なんて幸せな仕事なんだろうと思ったのを覚えています。

あれから、いちねん、
秋冬春夏 ひと巡り。

紅葉が終わると、落葉して、
そして雪景色の山を恐る恐る越え、
長い冬を終え、
春になって、芽吹きはじめ、
桜が美しかった、
そして、また、大好きな新緑の日々が来て、
しっとりと紫陽花が美しい初夏と、
緑の力強い夏が過ぎた。

その間に、麦が植えられ麦が育ち、
稲が植えられたわわに実る。
今年は、たくさんの台風で、長く長く稲が黄金のまま秋がすぎ、冬の手前までさわさわとゆらいでいた。

季節を感じながら働かせていただいていること、
ほんとに、しあわせなことだなーと思う。

この一年、
それはそれなりに、
仕事をするということ、
人とうまくやるという、わたしの人生で最も苦手なテーマに、
なんどもなんども撃沈し続けた一年だったのだけれど、
わたしって、本当に社会不適合なのだなと、自分の出来なさ加減に呆れながらも、
楽しい発見もたくさんあって、楽しい時間を過ごすことができたし、
ますます、こころが強くなった気がする。
わたしのこころは自由だな、囚われない自由。
それは、孤独なようでもあるけれど、やはりこころの自立はわたしを育てると思う。
誰がどう思おうと。

そして、黙々と運転するという仕事を通して、
沈黙のなか、こころと向き合うことができて、
ひとつのテーマからはじまって、
たくさんの本を次から次から読み、
仕事の沈黙を大切に使いながら、
その本から得たわたしの課題をこころの中に落とし込む作業を日々繰り返し、
一日に何時間も走りながら、余りある時間を本当に有効に使わせていただいた。
人と接していない中でも、ものすごく、豊かな時間を過ごさせてもらえた気がする。
たくさんの物事を少しずつ、時間をかけて消化することができました。

なんとも味わい深い一年。
ありがたいことです。

なにより、この一年、たくさんのしあわせや、やさしい気持ちをいただいて、わ
たしのおおきなおおきな支えになってくれていたこと。
もうそれだけで、ほんとうにしあわせだったなーと思う。


そろそろ、わたしのくらしに、
シフトチェンジしていかないとなーと思いながら、もう少し、もう少し。
そして、明日は、一年前に感動した桜三里。
一年ぶりの紅葉が楽しみ。
ほんと、ありがたいことです。
うん。もう少し、もう少し。

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以前に別のところで、
来年から保育の仕事をちゃんとはじめたいから、家を探しています。と呼びかけていて、
ここのとこの出店で、そのことについて何人かのかたに質問をされたので、少しその話し。

昨年の夏の終わりに、チャイルドマインダーという資格をとりに行きました。

チャイルドマインダーという資格のことは、ひとまず置いておいて、
その資格をとりにいこうとおもったのは2年間ちいさな人達とともに過ごし、知りたいと思ったから。
子どもがかわいくて、子どもたちの健康を守りたいと思って、
子どもたちがあの原発事故後ものびのび過ごせる場所が作れたらと思って、勢いではじめたひわさの家、
本当に密に、朝起きてから夜寝るまで、異性異年齢、様々な子どもさんとお母さんと、過ごさせてもらった2年と少し。
たくさんの経験をさせてもらいました。

だけれど、たくさんの子どもたちとともに過ごせば過ごすほど、その、ことの重大さに打ちのめされたのでした。

そして、決定的なことは、
わたしが子どもを持ったことがないということ。
子どもをもつ親の気持ちを、ほんとうにはわからないのかも知れない。
いや、わからない。
それが一番のひっかかりでした。

子どもたちの健康を守りたいと思いながら、わたしはここにいる子どもたちの、こころの健康を守れるような関わりが出来ているのだろうか。
子どもたちは、おとなが思っているよりももっともっと身近にいる大人たちからの態度や言葉に影響を受ける、傷ついたり、それはもしかしたら大きなかさぶたになって後あと疼くのかもしれない。
わたしは、大丈夫なんだろうか。

たくさんの育児書を読んだ、
信頼するお母ちゃんに子育てのあれこれを相談した。
発達障害のことの付き合い方、シュタイナー、モンテッソーリ、聞きかじった言葉を調べた。
わたしなりの子どもとの関わり方。

ワタシハマチガッテイナイダロウカ

そして、もっと知りたくなって、ちゃんと学びたくて、子どものこと、こころのこと、身体のこと、発達のこと、そして勉強しに行きました。
保育のプロの話しを聞きたかった。
大多数の人にとっては資格を取るための勉強だったとはいえ、わたしにとっては大きな実りのある時間だった。
経験したこと、経験の中で生まれた疑問や後悔、自信、それらを正して、後押ししてくれた。
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だけれど、結局のところ、わからない。
子どもとの関わり方、何がいちばんいい方法なのか、
その子その子なにがよいのか、どう関わっていいのかは違うような気がする。
それぞれのイキイキする瞬間、芽の出る時、芽の出かたが違う。
ただ、その芽を逃さないことだと思う。
あせらず待つこと。
ある程度ほっておくこと。
いらない幕をかけないこと。
それぞれの欲するきっかけを逃さずに、水や光を適度に注ぐ手伝いをすること。
それが、いまわたしの正しいと思う保育者としての関わり方です。

そして、今、近くにいるたくさんの子どもたちが、キラキライキイキ向けてくれるさまざまな表情に、わたしのとこに遊びに来てくれる笑顔、呼びかけてくれる大きな声に後押しされています。
いつもありがとうきっずズ。
そして、丸投げしてくれるお母さん達よ…。笑
今なら思う、母になったことがないわたしには、だからこそ保育者として客観的に感じることが出来るこころがある。

資格をとったすぐ後の昨年の秋にそう思いながら、
仕事をはじめて、うかうかしてるとまる一年…。。
でも、それはわたしの脳内をより育てるとても良い時間となりました。
保育者として致命的な、大人との関わりが苦手だという欠点も、突き詰めてよくよく学ぶことができました。



そんなわたしですが、
その資格を縦に…笑
自宅での保育をはじめようと思っています。
最初は完全に時間預かりの一時保育の予定だったのですが、
週に3日だけ開ける、月極保育にしようと思います。
単発保育は時々お声をかけていただいて行くのですが、4〜5時間の保育で仲良くなったころにはバイバイ…。
それもそれで、必要に応じて引き受けようと思うのですが、
わたしは出来れば子どもたちと関わりを持ちたい。
だから保育をしたいと思う。
週に1日〜3日 曜日決めの月極保育だと、毎週○曜日はともえちゃんの日と、子どもたちも段取りが出来るし、こちらも計画的に子どもたちの成長を見守ることが出来る。
後、母から離れることの子どもたちの中に生まれる自立心の力強さ、自宅保育をするお母さんたちに、週一日ずつでも預ける機会を作ってもらえたらと思っています。

ごはんも、希望で作ろうと思っています。
おやつも手づくりで、信頼できる友達にお願いしようと思っています。

一日4人までの少数保育です。

母の了解を得ることができたので、
とりあえず、実家で、
工房にしてたおばあちゃんの家を子ども部屋に、
実家のお庭を保育園使用に改装して、砂場とか、土山とか、畑とか少しずつ作れたらな。
家の前がちいさな公園だし、うらには散歩できる川があるし、近くに遊べるお寺と神社があるし、車もあんまり通らない。
広木先生の言うような、
広くはないが、
土と緑と水と動物と、
近所に顔見知りのおばあさんとおじいさんがいます。笑

来年の5月半ばくらいからかな。
アドバイスや、アイデアや、
読むべき書物、
受けたら良いような講座やとか、
あと半年、いや、その後も、
楽しみながら学ぼうと思うので、
オススメがあれば、ぜひ教えてくださいね。

また、少しずつ、このことのその後のすすみぐあいを、書いて行こうと思います。
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つい先日の話し。
なんだかここのとこ腸の調子がよくないなと思う日が続いていて、
手放さなければならなくなったいろいろなこと、悲しい気持ちや、自分にたいする憤りとかがおなかの中にのこった感じで、
なんだか一日のうちの何回か腸がしくしく痛い。

珍しく、ちょっとだけ、病院に行こうかなと思ったのだけれど、
結局、うん、温めようという考えに至り、休みの日や仕事の後に、最寄りでかつ最もよく行くあいあい温泉に何日か通っていた。

あれはだいぶん調子が良くなって、
一日に2〜3時間温泉にいて、
半身とか全身とかサウナとか、くりかえしくりかえし、ただ温めていただけなんだけれど、
日に日に調子がよい。
うん、やっぱり温めるのがいちばんなんかなー。
と実感していた時のこと、

寒い日で、露天の温度が低かったからか、露天風呂に人が居なくて、
わーい、らっきー♪貸し切りやーん♪と、ひとりのんびり浸かっていると、
80歳はゆうに超えたのではなかろうかと思うおばあさんが入ってきた。

腸の調子も悪く、なんだかメンタルもすこし元気がなくなっていて、ネガティブワンダーランドの住人になっていたわたしは、
生きるとは苦である。
でも生き続けなければいけないって、こういうことか…
生きるってすごいな…
みたいな、そういう思考になりがちだった。
すぐ、小説ブッダのあれこれの場面が浮かぶあたりは病気…。

だから、そのおばあさんの、
しろくなった髪や、皺のいった顔や身体をみて感動し、
おばあさん、生き続けてきたんじゃな。
日々を淡々とただ生きてきたのだ。
(や、まあ、ものすごいドラマチックで日々しあわせはっぴーだったかもしれんがね…)
もう、それだけでこころから尊敬する。
生きて歳を重ねるってそれだけでなんてすごいことだろう。
という、気持ちさえ覚えた。
温泉でおばあさんに会っただけで、
なんて大げさな…と思うが…、
本気で感動していた。

のに、
そのおばあさんが、広い露天風呂なのに、わたしを見つけて近づいてきて、
ぴったり横に座り話しかけてきた時には、ものすごい落ち着かなくなって、
申し訳ないが、今すぐ外に出たい気持ちになった。

おばあさんはそんなわたしにもちろん構わず話しかけてきて、
どっから来たのかとか、自分はどこからかとか、こないだはこんな人がいたとかあれこれ…。
常連さんなんだろう。
そして、おばあさんはこんな話しをしてくれた。

こないだここでおうたひとがいよったんやけどな、
ほの人な、病気で病院のせんせいに切らなあかんなあと言われたらしいんやけどな、
ほの人は切るんがいややったらしいてな、
ほのかわり、温泉に通うことにしたんやと、
ほんで、2ヶ月毎日ここに通うたんやって、
ほの病院の先生も気にして何回か一緒に温泉に来たっていよったわ。
ほしたらな、きれーに治ったらしいわ。
切らんでもようなったって。

なんと!お腹の調子が悪くて、でも病院にいかんと温泉に通っているわたしを肯定してくれるようなありがたいお話し。

おばあさんも、数日前に目が覚めたら目の前がぐるぐるなって、
病院にいって点滴をしてもらったらしい、ほそい皺だらけの腕の点滴の後を見せてくれた。
『ほなせいだいて温泉に通わなあかんね、はよう元気になったらええね。』

とだけいって、わたしはその場を離れた。
すごい素敵なおばあちゃんやったし、とてもいい話しを聞かせてもらえて、すごく嬉しかったし、ありがたかった。
おばあちゃんは、もっと話したそうだった。

けど、それ以上そこでおしゃべりを続けることはできなかった。
わたしには、それは居心地がわるくて、落ち着かない。
おばあちゃんが嫌なわけでも、気に障ったわけでもない、
ただ、わたしは、知らない人と話すのが得意ではないのだ。
しかも裸で温泉で。

以前のわたしは、
そんなわたしを責めていた。
あの人やあの人やあの人や、
わたし以外のほとんどの人は、
もっとおばあちゃんとたくさん話して、おばあちゃんが嬉しくなるような会話をちゃんと選べて、おばあちゃんも幸せな気持ちになるんだろうな。
みんなはやさしい。
わたしはやさしくない。
みんなはいたわりの気持ちがある。
わたしにはいたわりの気持ちがない。
って、人と比べて自分を責める。

けど、そんなこんなに飽きたので、
ある時から考え方を変えることにした。
わたしはそれが得意でない。って、
得意でないわたしをそれはそれでいいと思えるようになった。
知らない人が嫌いなわけでない。
知らない人と話すのが苦手なだけなのだ。
どうしたって落ち着かないんだもの。
それはわたしのこころの性質。
ほかのいろんなこころの癖も同じ、
周りの素敵な人のように出来ないことや、自分の苦手を責めることなく、
苦手を克服しなきゃと背負うことなく、
自分の苦手を認めていこうと思ったら、
ものすごくこころが軽くなった。

人それぞれ、
こころの性質が違う。
こころの成長度合いが違う。
今のわたしはここでよい。

そうしたら人のこともそう思えるようになった。

考えてみたら、そんなこともわからなかったわたしが、多種多様のお母さんと暮らしていたんだもの、そりゃいろいろあるわけだ。。

わたしは自由で、
ひとも自由で、
それぞれが、自由にふるまった責任をそれぞれに、受け取るのだということ。
それを認めることが、受け入れること。
全ての人を好きになることが受け入れることではないということ。
おなじように全ての人に好かれない自分も受け入れるということ。


温泉で会ったおばあちゃんが、
もう一回やさしい気持ちをくれたきがする。
もちろん、おばあちゃんはそんなことは知らんだろうが。
通りすがりの人に、通りすがりの人の何気ない言葉や仕草に、
話しはしないけど、話しかけたりもしないけど、いろいろ感動してこころを豊かにしてもらっている。
日々の中、ありとあらゆる出来事の、
本当にさりげないちいさい言葉や仕草が、わたしにとっていちばん、うれしくて優しい気持ちになることがある。
わたしというのはそういう性質。
後からしみじみ思い返すのです。

ありがたいことですなー。

そんな、静かだれけどこころの中はドラマチックな温泉療養週間。
おかげさまでお腹の具合ももうすっかりよくなりました。
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ここのところ食べ物の映画ばかりみている。
ここのところというか、だいたいは、食べ物の映画ばかり見ているのだけれど。
作る人と、食べる人。
最近『飯と乙女』という映画をみた。
観ていて楽しくなるようなのしか観ないわたしには、少しハードな変わった映画で、
それぞれの食、それぞれの食べ方、
食べることに対するそれぞれのゆがみ、だけど、食べないと人は生きていけないんだよ。
と、最後にはなんだかしあわせな気持ちになる映画でした。
主人公(なのかな?)の女の子がかわいかったー。


今週土曜日、15日は土成で開催の
つちみかどマルシェ&土成音楽祭
に出店します◎

場所 : 千光院
土成町吉田字山の神22-3
時間 : 10時から 16時

12月に一緒に展示会をするステキなリネンの洋服をつくるそら家さんと一緒に。
出来たてほやほやの展示会のDMも持っていきます♪
新しいろうそくもたくさん増えました。
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なんだか仲良しの作家さんや、美味しい出店がいっぱい。
神山からまたまたタイラーメンのあまくまさんも、まこっちゃんのなるちゅるうどんは久しぶりー!
食べるもんがあれこれ楽しみ◎
いろんなアーティストさんの音楽祭も楽しみ♪

翌日16日はいつものにこにこ市@ロッタハウス。

今週末晴れますように。
お会いできるのを楽しみにしています。







書く言葉が好きで、
以前は毎日のようにあれこれ綴っていたブログ
何もかもがかなしくなってしまって、
自分のココロもさまよっていた、
昨年の秋のはじまりに、
書き溜めていたブログを無くしてしまったら、
その時は何だかすっきりしたのだけれど、
ときどきアントキノココロを読み返したくなる。

ここのところ、
Facebookとかで簡単に日常を切り取れるせいか、
実家暮らしになってネット環境が変わったせいか、
はたまた、仕事がはやくておそいせいか、
そしてなにより、
読んでくれる人が増えれば増えるほど、
誤解もトラブルも増えて、
わたしを一方的にいい人と思い込んで、逆ギレされるとか…
それはわたしのしていることが公共にさらされやすいことだったからもあるけれど、
書くことが日常をさらけ出すことが、
ものすごく浅はかな行為に思えてきて、書くことから離れてしまった。
そうしたら脳みその中の書く言葉部門が随分退化された気がする。
ただ、わたしはただ日々のことを書くことが好きなだけなのに。
カクコトバが好きなのだ。
カクコトバとワタシジシンがかけ離れてると言われても…
でもそれはわたしのことば。

今思えば、どーせ見たい人しか見ないのに、
書きたいことを、日々のことを、
カクコトバが好きならかけばえーではないか、
こんだけココロを言葉に表現出来る時代なんやからと思う。

そんなこんなを思っていたところの、
年末のとよとみ珈琲さんでの展示会の準備。

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来年の春から、保育のことにちゃんと向き合おうと思っているので、
花水月さんとしては最後の展示会だと思っている。

花水月さんとしてやってきたこの7年。
あと少しの日々を、
花水月*日々のこと のブログに
日々、つらつら綴って行きたいなーと思う。
読んでくれる人も少なくなってきたから、
いまこそ、自由に書こうではないか、 
これからのこととか、
いまのこころとか、
アントキノキモチとか、
あれこれとおもうことを。
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御嶽山が噴火したというニュースの話しをしていて、
突然に母が、
そういえば、あなたが入院したときおばあちゃんも御嶽山に登ったのよ、と話し出した。
37歳にして、はじめて聞いた話し。

...

わたしは産まれてすぐに水頭症と診断されて、産まれてすぐから3ヶ月近く、ずっと入院をしていた。
鼻に管を通されて人工乳を与えられ、点滴も抗生物質もずっとされていたのです。
自然育児派の方には申し訳ないくらい今は元気だけど…。

そんな孫を見た祖母が、友人に誘われて、わたしの健康をお参りに御嶽山に登ったのだとはじめて聞いた。
祖母は山に登るようなタイプでもなく、わたしが知る限り、県外に旅行に出る祖母を見たことがない。

たまたま映画の『うまれる』を見て帰って、うまれることの奇跡を思っていたさなか、とつぜん聞いたその話し。
なんでそんな大事なこと、おばあちゃんが生きとるうちに教えてくれんかったんよー!と思いながら、ああでも、その時はきっとまだ、そのことに本当に感謝できるほど、自分を、大切に思えるようなこころのわたしではなかったんだろうとすぐに思った。

病とともに産まれてきたわたしを心配する、祖母の熱い気持ちをたまらなく思う。
あの、頑なに外出嫌いの祖母の。
嬉しいとか感動とかではいい表せない。
なにやら、お腹の奥がぎゅっとなる、辛いかなしい。
だけど、じわじわ熱くなる。

その後ちいさなわたしは、手術の一週間まえに、
奇跡的に頭に溜まった水が引いて、ほんとうに奇跡的に!手術することなく退院できたのです。
手術をすれば、成長ごとに大きな手術を必要とし、心身にさまざまな障がいがのこるかもしれないといわれる水頭症。

奇跡は偶然だと思っていた。
ただ、ラッキー♪
生きてるだけでまるもうけー◎と…
でも、たくさんの人の祈りのおかげだったんだと、
あらためてあらためて思う。
母から産まれて、たくさんの人の、祖母の愛と祈りでもって命を繋ぐことができたんだ。

わたしは、全然祖母に優しくなくて、恩返しも出来ていないし、
今や父を含む祖母かたの親族とはつながってもいない。
ただ、ひたすら、祖母と祖父のお墓参りに行くだけ。

そういえば、つい2日前、
愛媛に行く前にお彼岸おくれのお墓参りにいった、
そのとき、なんとなく、命のバトンをありがとうと、はじめて思ってお参りしながらお礼を言ったのです。
こころのうちから湧き出た言葉。
お墓のある脇町のお寺の仏陀像にもお礼を言った。
その言葉が届いたのかな。
だからこの話しを聞くことが出来たんかな。

命のバトン。
ありがとう。

ここのとこ、同じテーマで物事がまわる。
頭の中を解決する速度の速いこと速いこと。
そうして、日々の中、あれこれ紐解いていくんだなー。
ほんと、日々是感謝◎

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わたしは怒りっぽいたちなので、怒りについて考えることが多い。
怒りとはなにか、怒りの対象、怒りの生まれる理由、怒りがあって一番傷つくのは誰か、どうやって怒りからこころを守るか。

そのことを突き止めたくて、ありとあらゆることをしてきたと言える。
ヴィパッサナ瞑想もそのひとつ。
わたしの中から生まれる怒りは、全てわたしに責任があって、わたしが怒りを持つ相手には責任のないこと。
わたしのこころの癖、...
持って生まれたものや、生まれてから染み付いてきたこころの癖に、
相手の何かが触れるだけで、彼らの振る舞いは彼らの思うようであっていいんだと、
ここ数年、理解できるようになってきた。
理解出来るものの、習慣にはまだなっていなくて、しばしやはり怒りは生まれる。

だけれど生まれた怒りを鎮めることは、ずいぶんたやすくなってきた。
身体の隅々まで、怒りの所在を調べ上げる。

そして、怒りをぶつけることのほうが、怒りをぶつけられる側になるよりも、何倍かも辛いんだってことが、ここのところよくわかる。
怒りをぶつけてすっきりしたことなんて、今まで一度もないもんだから。

先日、とても大きな怒りのエネルギーを浴びて、
それはわたしをうろたえさせたけど、どう振り返りをしても、ことの発端以上の大きな怒りをうんだのは、
もともとあったわたしに対するちいさな苛立ちが爆発しただけで、
そして、その苛立ちはわたしのもっともニュートラルないつものありかたや、相手との距離感、行動や考え方のマイペースさが、相手の怒りの琴線に触れんだろうなと、こころのそこから納得してしまった。

わたしが苦手な相手なら、わたしはいつも態度にでてしまうので、多分わたしが悪いのだろうけど、
そうではなくて、むしろ親しみを持っていた相手だったので、
ただ、何かがズレるタイミングをわたしが見逃していたんだろうな。
相手の琴線にふれる何かを知らず知らず、わたしは積み重ねてきたのだろうな。
傷つけたのでなければいいなとこころから思う。

人それぞれこころのくせや怒りの理由が違うけど、比較的同じような感覚の人たちとやさしい時間を過ごしてきたわたしには、社会に出ることは、時々少し難しい。
難しくて、いつも立ち止まる。
わからないことがおおいのです。
けど、勉強になるなーと思う。ありがたいことです。

わたしは、ぶつけられた怒りのエネルギーを、
もちろんとても悲しかったけれど、
どう消化すればいいのかわかっているし、
美しいものや、優しい人や、温かい時間、
ありがたいたくさんのものに恵まれている。

同じようなことを繰り返して人生は過ぎていく、
受けとめて、手放す。
受けとめて、手放す。
ことあるごとに、こころの振り幅が、ちいさくなっていったらいいな。

いかりについて10671428_732683500112059_7453482542246222827_n

久しぶりにブログを書こうと開いてみたら、
前回のブログが、7月になりましたというはじまりで笑ってしまった。

そして、7月が終わろうとしています。
夏休みの始まりとともに、
生まれてはじめてのぎっくり腰になりました。
うわさでは聞いていたぎっくり腰。
はじめてのぎっくり腰はたまげるほど痛かった。
おかげで、楽しみにしていた子どもたちとの川遊びや、どきどき待っていた吉野川フェスティバルのSUPマラソンや、あれこれが中止で、悲しいなーと思う反面、
ああでも、ひさしぶりにほんとにゆっくり家でゴロゴロすることが出来て、そして腰が痛いということがどれほどのものかが分かってよかったなと思う。
わからないことがわかるようになるのはありがたいことだ。
そして、たくさんの人にやさしくしてもらえること。
ありがたいことです。

ずいぶんよくなってきたので、
ルナちゃんとまめちゃんと、涼しくなったら夕暮れさんぽ。





そして腰の痛みに、家でゴロゴロしながら、
気になっていた本を片っ端から読むことが出来た。
どの本も、きっと今のわたしに必要だから手元にやってきた本。

どの本にも、大切なのは愛だよーって書いてある。
まずは自分の人生を、これ以上ないほど強く愛すること。

なるほどなー。
テレビをつけても、ネットを開いても、twitterもFacebookも、
世界はかなしい事件にあふれている。
かなしくて、不安になるニュースにあふれている。
その情報が強すぎて、悲しい気持ちにひっぱられがち。
忘れてはいけないことだけれど、
大切なことはいつでも取り出せるように、こころのポケットにしまっておいて、
かなしい情報にあふれそうなこころを、内側からあふれる愛で満たしていこうと思う。

愛でいっぱいにする方法は、日々の生活で愛おしいと思うものにいっぱい気持ちを向けること。

そう思いながら日々を過ごしていると、わたしの暮らしがいかに愛に満たされているかに気付く。
蚊帳に守られて目が覚めたり、動物たちがいつも近くにいてくれたり、今日のご飯を作ることが楽しかったり、美味しかったり、わたしの周りの景色を日々大好きだなーと思えることや、夕方のビールが美味しいことや、たくさんの時間がわたしにはあること。
特に、散歩の時間ほどしあわせな時間はない。
わたしの道は小さなしあわせだらけ。

ちいさな不平不満、思い通りにならないこと、公平じゃないものに目が向きやすい性質のわたし。
引き継いできた性質は、自分次第で変えることが出来るのだと教えてもらったのはここ数年のこと。
周りに満ちている、愛すべきうきうきするものに気持ちを向けて生きていこう。

歳を重ねるごとに、本当に自分の性質がシンプルになっていく。
あなたの生き方はあなたの生き方。
わたしはわたしの生き方しか変えられない。

だから生き方が雑になったといわれるのだ。。
そして、意外とドライなんですねとか言われるんだ。。

でも、まずは自分から、ちいさなしあわせにあふれる気持ちを日々大切にしていこうと思う。

8月になるよー。
そろそろ復活して、この夏もまた、そして最後のひわさ出の夏、子どもたちと楽しい時間を過ごそうと思います。













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